【今月のことば 2019年6月】
ここに立つ以外にない
池田勇諦氏
私たちの日ごろの生き方というのは、善いか悪いかという考えに立った生き方です。そういう生き方の私たちですから、どうしてもそこに真偽というもう一つの視点を聞きひらかねばならないのです。人間を本当に目覚めさせるものは何か、逆に人間を眠らせるものは何か。生きる意味を問う者にとって、もっとも大切な関心事である「真偽を問い尋ねる」姿勢、感覚です。
言葉をかえれば、これこそ「求道心」と言われる心でしょう。道を求める心はどこまでも真実を尋ねる心です。「真面目」という問題から言えば、この求道心こそ本当の真面目な心、真面目さなのでしょう。求道心ということを抜きにして、人間の真面目さは成り立たない。人間を本当に真面目たらしめるものは、この一点だと教えられます。
求道心に関しては、仏教では「菩提心」をはじめ、いろいろな言葉がございますが、身近な言葉で言えば、「聞法心」ですね。「ここに立つ以外にない」ことを習う(繰り返し学ぶ)心ともいえましょう。
仏法を聞けば私たちの善し悪しという考え方は消えるのかと言えば、とんでもありません。そんな話じゃありません。真偽の感覚というのは、むしろ、「そこでしか生きていない私だった」ということをはっきりさせられる仏智への帰依に賜っていく感覚なのです。どこまでも自分の善悪のはからいでしか生きていない、だから目先の都合しかわからない。そんな生き方を一瞬一瞬知らされていく。その意味で仏法は、一瞬一瞬、一念一念のことであります。
この一念、臨終までとおりて往生するなり
『蓮如上人御一代記聞書』
と、蓮如上人がおっしゃったように、まさに一瞬一瞬、一念の反復なのですね。もう一歩踏み込んで言いますと、私たちの善悪の心・分別の心はなくなりません。だから、私たちはいつでもつまづき、悩み、苦しみます。そういう毎日のさまざまな事柄を通して、自分の善悪の考え、分別との緊張関係を生きること、言いかえれば善悪の分別の立場との闘い、それが「歩み」ということですし、そういう歩みを賜っていくことが「信心の生活」です。
『親鸞聖人と現在を生きる』 池田勇諦氏