【今月のことば 2019年3月】
人間の物差しや執着が入っていない世界を浄土という
その浄土を念じながら生きていく
一楽 真氏
亡くなった人との関係ということが、ものすごく大事だと思っています。お通夜、お葬式というのは、やはり日常にない時間です。その人の人生を偲んで、死という人間の事実を受け止めていく。これは宗派とか儀式の問題ではありません。亡き人を偲ぶということは、亡き人の人生をいただくという意味を持っているのです。残念ながら今の日本は、そちらはどんどん軽くなっている。それは亡き人に対して失礼だという意味ではなく、自分の人生を見る目が半分、あるいはそれ以上、抜け落ちていくという問題を抱えていると思うのです。
例えば癌という病気で亡くなられたとしても、それは癌に負けたという話ではないのです。寿命を尽くされ、生き切られたわけです。長い人生か、短い人生か。人間はこのことにとらわれがちですが、長さではかれないようないのちの世界がある。私たちがあらためて出遇わなければならない世界だと思います。
それを、親鸞は「アミタ(amita 阿弥陀)」というインド伝来の言葉で大事にしています。amitaというのは、「ア(a)」と「ミタ(mita)」という言葉に分解されます。「ミタ」というのは「はかる」という意味です。「ア」は、それを否定する言葉。「はかることができない」というのが「アミタ」という言葉です。「無量」とも翻訳されます。この「アミタ」に遇わないと、善悪や損得ではかることを人間は止められない。そのように親鸞は言うわけであります。
ですから、念仏というのは、声に出したその音自体に意味があるのではありません。まして、阿弥陀さんにお願いして、都合の悪いことを取り除いてもらったり、自分の願いを叶えたりするものでもありません。そうやって自分の都合の善し悪しで生きている、私たちの生き方そのものを問うてくる呼びかけのことばなのです。浄土というのも、この「アミタ」の世界を別の言葉で言い直したものです。人間の物差しや執着が入っていない世界を浄土というわけです。その浄土を念じながら生きていくこと。浄土が真の宗であるから、浄土真宗というのです。これは本来宗派の名前ではないのです。
親鸞フォーラム第12回 社会×共育×仏教
齋藤孝×小島慶子×一楽真