
因を知らないときには、感動ということがないのです。
宮城顗(みやぎしずか)氏
仏教に「因・縁・果」ということばがあります。成り立った「結果」には必ず、そうなるための条件である「縁」と、その始まりとなる「原因」があるという意味です。
あるお家にお参りに行かせていただいた時のお話。お参りが終わって振り向くと、お家の方が「それいいでしょ」と指をさされました。見ると、私のすぐ横にミニひまわりの鉢植えがありました。まだ、つぼみで咲いてなかったこともあって、私は「ああ、いいですね」とぼんやりした返事をしました。
聞くと、小学生の女の子が「ひいおばあちゃんに見せたい」とミニひまわりを一生懸命育てたのだそうです。お世話のかいもあってきれいに咲いて、ひいおばあちゃんもすごく喜ばれて二人いい笑顔で写真を撮られました。
それから4年たったある日、お掃除をしていると「○○ちゃんが育てたミニひまわりのタネ」と書かれた袋がふっと出てきたそうです。「4年も経ってるからダメかもと思ったんですが、奇跡的にひとつだけ芽を出してくれたんです。うれしくなってお供えさせてもらいました。また喜んでくれていると思います。」と。
小さなつぼみのミニひまわりという「果」。そこに至るまでの「縁」と、そもそもの始まりの「因」を聞かせてもらったとたん、さっきまで何にも思わなかったその鉢植えが全く違って見えました。
この出来事は、単に私がさまざまな物事をどう見ているのか、ということを教えているだけではないのだと思いました。
今、私は確かにここに生きています。その事実を「果」とするなら、ここに至るまでの「縁」、そして「因」とはどのようなものなのか。今まで、どれだけの人にお世話になってきたのか、どれだけの他のいのちに支えられてきたのか、そもそも私に宿るこのいのちはどこから届けられたのか。
「果」の充実ばかりを追い求めてしまう中で、どこまでも「因」や「縁」をたずねていくところに人生の感動があるのではないか。小さなつぼみのミニひまわりが教えてくれたように思いました。(住職)