【今月のことば 2020年2月】
「我欲手伝う仏」在さず
(私の欲望を手伝う仏さまは、おられません)
池田勇諦氏
「我欲を手伝う仏、在さず」ということはいったいどういうことなのでしょうか。
端的に言いますと、「信ずる対象」として自分の前に見ている、立てている仏が、実は「信ずる主体」であったということの驚きの言葉でないか。
私たちが、「我欲を手伝う仏」を妄想する限りは、仏は常に「信ずる対象」で、自分の前に立てます。そして期待と要求を突き付けていく対象でしかないわけです。ところが、そういうあり方である限りは、そこにおいて、我欲が何ら満たされないということになれば、神も仏もあるものかと、ポイ捨てで終わってしまいます。
「真実の仏」というものは、私がものを見る、聞く、考える、行動する、その「主体」になってくださるものなのです。つまり、見る、聞く、考える、行動する、その「感覚」「智慧」となってはたらいてくださるもの。だからその意味では、「本当の私」となってくださるもの。それが「真の仏」でしょう。
だから、私たちはその「真の仏」に気付かされると、初めて現前の境遇と向き合っていく、そしてそれを乗り越えていく努力が始まるということではないでしょうか。
ところが、その始まった歩みというのは、決して喜びの日暮らしというような、そういうきれいごとではありません。むしろ、我欲の、自我の妄念妄想に振り回されていくような毎日でしかない自分がいよいよ見えてくる、問題になってくる。しかし、そういう自分だから自分はダメなんだということではなくて、そういう自分だからこそ、いよいよ、聞きなおしていかねばならんのだと、立ち上がる、姑息一歩するそのことです。
池田勇諦氏