【教應寺 今月のことば 2020年9月】
今私たちに必要なのは、
自らの中にある様々な闇に気づいていくということ
酒井義一氏
病に対して怖れを感じ、誰もが自分はうつされたくないと思ったはずです。それは自己防衛本能が作動したからで、ごく当然のことです。しかし、自分を守るという思いが、時に暴発していくのです。
そして偏見や差別が、人に向かって発露していきました。排除するべきは菌であるのに、必要以上に人間を排除しようとしたのです。感染者やその家族、医療従事者に向けられた冷たいまなざしの根底にあるのは「怖れ」や「自分を守る」という心ではないでしょうか。(中略)
浄土真宗は、人間の持つ闇を照らし続ける光の宗教です。親鸞は、光に照らされながら人間を見つめ続けられました。
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)
これらの言葉を、コロナの現実を通して読み直してみると、人間の持つ闇がより具体的かつ現代的に照らし出されてくることを感じています。
また蓮如は、われらの持つ病について、次のように言及されています。
「無始(むし)よりこのかたの、無明(むみょう)業障(ごっしょう)のおそろしき病」(『御文』)
無明や業障・偏見や差別という恐ろしい病にかかっていながら、そのことに無自覚であるわれらに、教えの言葉は目覚めをうながし続けているのです。
今私たちに必要なのは、自らの中にある様々な闇に気づいていくということ。そして、そこに人間がいることを見いだすまなこを獲得していくということではないでしょうか。
コロナの現実を、人間の闇を凝視する浄土真宗と出(で)遇(あ)う機縁としていくことが、私たちに与えられた大きな課題であると受け止めています。
酒井義一氏
『南御堂』「コロナという時代を親鸞と生きる(上)」