【今月のことば 2019年5月】
本尊に手を合わせる行為は、
「私にとって本当に尊いとはどういうことなのか」
ということを確かめ、問うということです。
真城義麿氏
仏法は、学問や知識ではなく、私たち人間に関わる話です。私たちは、尊く生きる、安心して生きるということを考えていくべきなのですが、生活の中からそれらが抜けてしまったのです。寺院にお参りした時、手を合わせる先は本尊(ほんぞん)です。本尊とは、「本当に尊い」ということです。自宅のお内仏(ないぶつ)(仏壇)で手を合わせたときもそうです。本尊に手を合わせる行為は、「私にとって本当に尊いとはどういうことなのか」ということを確かめ、問うということです。そういう営みであるはずですが、私たちの日常の中に「尊い」ということが抜けてしまっているように思います。本尊(ほんぞん)喪失(そうしつ)の時代といえます。
実際に、「尊いとはどういうことですか」と聞かれると上手に答えることが難しいでしょう。例えば、強い人、賢い人、美しい人、速く走る人と、これらには順番がつきます。しかし、「尊い人」には序列や順番がつきません。いかなる境遇にあっても安心して生きていける道といいましょうか。それが何であるのかということが、仏教のテーマなのです。
いかなる境遇にあってもということは、年を取っても、病気になっても、大事な人と死に別れることになっても、自分自身の死ということが迫ってきても、それでも毎日を意味のある人生として、あるいは、尊い人生として生きていくというのは、どこで成り立つのかということでありましょう。
「生きている」と「生きていく」 ―人間になぜ宗教が必要なのかー
真城義麿 著より