【今月のことば 2019年2月】
いかなる者も目覚めずにはおれんというのが人間だ。
それが、尊厳性なんだ
和田稠氏
我々がこう集まってきて、どこでどういう生活をしているのかわからんけれども、
例えどんな生活をしても人間である限り、何とはなしに寂しい、退屈、不安、満足で
きない、不満足。何とはなしに疲れる。何とはなしにむなしい。これが人間でしょ。
人間である限りこれを避けることができない。その避けることができないこれこそが
私の本当の姿だ。これこそが私の本当の姿ではないか。そういうところに、これが一
つの自覚となる。(中略)
人間というのは、尊厳性を持っとる。このごろよく、人間の尊厳性ということを言い
ますけれども、なぜ尊厳なのか、という根拠がはっきりしないでしょ。人間のみが本当
に目覚めるということに、責任をもって、そして他を目覚めさせていくというはたらき
がある。だから尊いんだ。人間の尊厳性とはそういう所にある。もっと言うならばね、
いかなる者も目覚めずにはおれんというのが人間だとそれが、尊厳性なんだと。簡単に
言うとそういう事でしょうね。いかなる者も目覚めずにはおれん。その証拠に人間であ
るかぎり、さっき言った、孤独とか、不安とか、不満とか、退屈とか、こういうものを
抑えることができんでしょう。人間であるかぎり、必ず出てくる。それが、何よりの証
拠である。真実を求めずにはおれんという人間の構造がそうなっておる。そこに、人間
の尊厳性を、私たちはあらためて知らされるんですね。
同塵の集い 講義録より(2003年7月)