【今月のことば 2020年3月】
縁(えん)に生き縁に死する
親鸞聖人
親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は「死ぬ」ということを、「娑婆(しゃば)の縁(えん)つきて」と言っておられます。死を縁がつきることだとひと言でいいきるご心境のすばらしさに、いまさらながら驚かされます。すべては縁だとおっしゃるのです。
いわれてみれば、それ以外にはありません。この世に縁のあるかぎりはこの世におらせていただきます。この世の縁がつきたならば、なごりはつきませんが、死なせていただきましょう。そこには何もとどこおるところがありません。事実のままを生きゆく聖人のおすがたです。まったく淡々として「死を視(み)ること帰(き)するが如(ごと)し」です。
しかし、これは死を願い、お浄土を恋しく思う厭世(えんせい)の情(じょう)ではありません。いささかの病いでも「死なんずるやらん(死ぬのでなかろうか)」と心ぼそく思われるのが人間の本心です。しかし、すべては縁次第だということは、望ましく思う心も、また厭(いと)わしく思う心も、そういう人間の思いをすべて仏におまかせして、事実のままに生死(しょうじ)せしめられる、ということです。私がどのように思おうとも、事実は厳然(げんぜん)と私の前にあらわれてまいります。縁によって私にあらわれた事実を、事実のままに生死していく力が、お念仏(ねんぶつ)の力ではないでしょうか。
聖人は「宿業(しゅくごう)」ということをいわれますが、宿業の自覚(じかく)とは、この自分に与えられた「縁」をありがたくいただいていく、ということのようであります。聖人は、宿業のままに「縁に生き縁に死する」というはっきりした死生(しせい)観(かん)に住しておられるのであります。
私たちは、いくら死をきらっても逃れることができるものではありません。そういう人間の思いのあだなることを教えるものが、この「縁」という思想です。この世に縁がつきたことを「死」というのです。縁がつきようとしているのに、まだ生きたいと焦燥(しょうそう)するほど痛ましい苦悩はないでしょう。
子どもであろうが年老いたものであろうが、そして、病気で亡くなっても事故死であっても、またたとえ死にざまがどうであろうとも、縁に生き、縁に死んでいった人生です。なごりはつきないのですが、ありがとう、ありがとうと、見送りましょう。死ぬということは「無」に帰することではなく、もう死なない、本当に生きた人として、二度と私から離れることのない存在になっていることに気づかされるでしょう。
『なき人をしのんで』(東本願寺出版)